この記事では、2018年7月27日のさいたま地方裁判所の判決に関して、なぜ実際に覚醒剤を所持していた男性が無罪になるのかについて解説する。結論から言うと「決め手となる証拠品が違法な手口で入手された物であり無効だから」だが、これだけでは納得できない人もいるのではないかと思う。
私は法律の専門職でもなければ法学をちゃんと勉強したこともないため、あくまで参考程度にしてほしい。また、誤った解説があれば指摘してほしい。
事件の詳細な内容は上記のニュース記事に任せるとして、この無罪判決に対して納得できないという人が自分のTwitterタイムライン上で散見された。実際に判決に疑問の声をあげる以下のツイートは大きく拡散されているし、リプライ欄も荒れ模様となっている。
警官「職務質問です」
— 和泉守兼定 (@netsensor1) July 28, 2018
男「先にトイレ行かせて」
警官「ダメです、荷物見せて下さい」
男「…(覚醒剤を取り出す)」
覚醒剤所持の現行犯で逮捕。
裁判官「トイレに行かせず職務質問は違法、よって無罪」
驚きの判決。トイレ行かせたら証拠隠滅するだけなんじゃ?https://t.co/ivaGnfjGFA
違法な職務質問をしたからといって、実際に覚醒剤を所持していた男性が無罪になるのは一見不自然にも思える。男性は男性で覚醒剤所持で罰し、警官は警官で違法捜査で罰するのが自然な発想かもしれない。
しかしながら、近年の判例に基づく限り、男性が無罪になるのは不自然ではない。またあくまで素人視点の感想だが、判例で示されている基準もさほど不自然ではないと思う。これらの点について、順に詳しく解説する。
違法な手段で押収された覚醒剤が証拠とならないため、男性は無罪となる
無罪の理由を一言で言うと、今回の事件で押収された覚醒剤は証拠として扱われないから。
これについて解説するために、まず違法収集証拠排除法則について説明しなければならない。事件に関連した供述や物であっても、その入手方法が違法ならば証拠として扱うことができない、とする法理である。
この法則が妥当であることは、供述証拠(人がある事実について言葉で述べた証拠)に関しては誰もが納得すると思う。たとえば憲法38条と刑事訴訟法319条では、拷問によって得た自白は証拠とならないと規定されている。自白でなくとも賄賂や脅迫によって得た関係者の発言を証拠としてはならないのは明らかだろう。違法な手続きを認めてしまうと虚偽の供述が横行するからだ。
しかし、非供述証拠(物証など)となると話が変わってくる。たとえば今回の事件なら、あくまで押収手続に違法な点があっただけで、男性のカバンの中にあった覚醒剤は捏造されたものではない。となると確かに男性は覚醒剤を所持していたのだから、覚醒剤取締法違反により罰するべきと考えるのも自然である。
実は非供述証拠に関する違法収集証拠排除法則には明文規定がなく、直近の判例が基準となっている。そして昭和24年(1949年)の最高裁判例には以下のような記述がある。難しいので読み飛ばしてもOK。
たとえ押收手續に所論の様な違法があつたとしても押收物件につき公判迄において適法の證據調が爲されてある以上(此のことは記録によつて明である)これによつて事實の認定をした原審の措置を違法とすることは出來ない、押收物は押收手續が違法であつても物其自体の性質、形状に變異を來す筈がないから其形状等に關する證據たる價値に變りはない、其故裁判所の自由心證によつて、これを罪證に供すると否とは其專權に屬する。
「押収手続が違法であったとしても、物自体の性質、形状に変異を来すはずがないから、押収物の証拠たる価値に変わりはない」としており、覚醒剤を所持していた男性も罰するべきではないかという主張と、まさに一致する考えである。つまり、昔は違法収集証拠であっても、性質や形状に変化がない物証ならば証拠として認めていたのである。
ではなぜ今回の裁判では男性が無罪になったのかというと、昭和53年(1978年)の判例から最高裁の見解が変わっているからである。*1
令状主義の精神を没却するような重大な違法があり、これを証拠として許容することが将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当でないと認められる場合においては、その証拠能力は否定されるべきである。
つまり、
- 令状主義に反するなど、収集方法に重大な違法がある
- もし証拠として許容すると違法捜査を促進してしまう
ような場合に限り、違法収集された非供述証拠を証拠として認めなくなったのである。よって直近の判例に従うなら、
- 令状主義に反するなど、収集方法に重大な違法がある
令状無しの職務質問において男性を違法に拘束し、かつトイレに行かせず公衆の面前で失禁させるなどの苦痛を加え、強制的にカバンの中身を提出させた - もし証拠として許容すると違法捜査を促進してしまう
もしこのような職務質問で押収した証拠が認められるならば、令状なく公共の場で人を拘束して所持品を強制的に提出させるという、違法な捜査が横行する恐れがある
以上2条件を満たすため、今回の事件で押収された覚醒剤は違法収集証拠排除法則に従い証拠として扱われない。したがって、犯罪の証拠が無い本件の被告人は無罪となる。
個人的には、最高裁の新しい見解の方が望ましいと思う
直近の判例に従うと男性が無罪になるとしても、果たしてそれが妥当かどうかは別問題である。実際、古い方の昭和24年最高裁判例に従うなら男性も有罪となるはずである。最高裁の判例が変化した理由については前述のWikipediaには「アメリカ法の影響」とあるが、どのような見解が望ましいと思うか、個々人が意見を十分に述べるべきだと思う。
個人的には最高裁の新しい見解が望ましいと考えている。理由は以下の通り。
- 柔軟な対応が可能
旧見解に愚直に従うとすれば、どんな違法捜査によって得た物証も有効になってしまう。また新解釈は絶対的排除説(少しでも収集方法に違法行為があればあらゆる証拠が無効)ではなく相対的排除説(司法の廉潔性や将来の違法捜査の抑止の観点から、諸般の事情を利益衡量して排除を決定)を支持している。*2
これは以下の判例からも読み取れる。職務質問の要件が存在し、かつ、所持品検査の必要性と緊急性が認められる状況のもとで、必ずしも諾否の態度が明白ではなかつた者に対し、令状主義に関する諸規定を潜脱する意図なく、また、他に強制等を加えることなく行われた本件所持品検査(判文参照)において、警察官が所持品検査として許容される限度をわずかに超え、その者の承諾なくその上衣左側内ポケツトに手を差し入れて取り出し押収した点に違法があるに過ぎない本件証拠物の証拠能力は、これを肯定すべきである。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51125 ほぼあり得ないことであるが、もし職務質問で不当に身柄を拘束して提出させた証拠がテロ行為用の爆弾などであった場合、未然に防いだ犯罪の重大さから証拠の有効性を認めるのではないかと予測している。*3
- 違法捜査への牽制になる
今回の事件の男性は相当に挙動不審だったと思われるが、それでも失禁するまで公衆の面前で拘束するのは異常と思える。職務質問のような令状無しの任意捜査では無実の人間を対象とする可能性の方が高いと考えられ、そのような場での違法行為は十分に抑止しておくべきだと個人的に思う。
新見解の問題は、今回の事件のように実際に罪を犯した人間を無罪にしてしまうことであるが、職務質問のような任意捜査で違法な所持品を完全に取り締まること自体がそもそも難しく、多少の見逃しはやむを得ないのではないかと思う。証拠隠滅の恐れがある場合の対処だが、たとえば今回の事件では、絶対に中身を見ない約束をした上でカバンを一時的に警官が預かるなどの妥協案が考えられる。*4