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対戦ゲーム バランス調整の哲学

この記事では、対戦ゲームにおけるバランス調整を、平等論や功利主義の観点から考察する。*1

なお、この記事は寝椅子氏の企画であるスマブラAdventCalendar2021に参加している。この記事の前日に書かれた以下の記事は、スマブラSPの一人用モード百人組み手を考察した非常に貴重な記事であり、前作スマブラで一時期組み手モードにハマっていた自分には個人的にも興味深かった。企画に参加している他のブログ記事も是非読んでみてほしい。

 

 

バランス調整と社会思想

昨今の対戦ゲームは、リリース後のアップデートと不可分の関係にある。アップデートは不具合やバグ、意図しない挙動の修正に留まらず、弱体化(ナーフ)や強化(バフ)などのバランス調整を含むことがある。*2

ゲームのオンライン化が進んだ近年特有のものとはいえ、要するにバランス調整はゲーム内のキャラやカード、武器間にある格差を是正し、より「平等」にする試みとみなせる。よって、平等に関する従来からの議論を適用できるかもしれない。

また、バランス調整にはゲームに関わる全ての人間が巻き込まれるため、全会一致で調整内容が受け入れられるとは限らない。それでもバランス調整が実施されるのは、全体で見れば不満足よりも満足の方が多い、つまりトータルではプラスになると想定されているからだ。つまりバランス調整はコミュニティ全体の幸福の総量を増やす試みと言え、功利主義に関する議論を適用できるかもしれない。

勿論、実社会を対象とする社会思想はゲームとそぐわない点も多い。しかし、その観点からバランス調整を捉え直すことで何か新しい知見を得られるかもしれない。この記事ではそのような知見の獲得を目指す。

なお、この記事では対戦ゲームのバランス調整一般を扱うため、調整の対象はゲーム内のキャラや武器、カードなど何でも良い。しかし、この記事はスマブラAdventCalendar2021に参加しているし、表記を省略するためにも「キャラ」に統一して進めることにする。また、記事内でもスマブラSPの例を多用する。

 

バランス調整と平等論

目的論的平等主義と水準低下批判

平等であること自体が重要であり、良いこととみなす立場を目的論的平等主義という。これに立脚してバランス調整を行うならば、当然キャラ間の不平等は是正すべきである。

しかし、目的論的平等主義は水準低下批判と呼ばれる批判を招く。説明のため、構成員A, Bの3つの状態を考える。状態を表す指数は大きいほど望ましく、豊かさや所得、強さなどに置き換えて考えてほしい。

  • 状態1 [A, B] = [3, 1]
  • 状態2 [A, B] = [1, 1]
  • 状態3 [A, B] = [2, 2]

目的論的平等主義によれば、格差のある状態1よりも平等な状態2の方が望ましく、状態1のAの状態を3から1に悪化させ状態2に移行させることが肯定される。つまり、目的論的平等主義によれば、持てる者全員から奪い尽くして全員貧乏にすることも正当化されてしまう。このような平等主義に対する批判は、水準低下批判と呼ばれる。

これでは、目的論的平等主義に立脚したバランス調整には問題が残りそうだ。全員を底辺に合わせることで平等が達成されるとしても、そのような調整は望ましくないだろう。これは実社会でも対戦ゲームでも同じことだ。

 

優先主義

哲学者デレク・パーフィットが提唱したのは、格差は是正すべきとしつつも、その理由を「状態の悪い者を優先するべきだから」と考える優先主義だ。優先主義によれば、貧しい者に優先的に資源を分配することが重要である。

たとえば前述の状態1,3を比較すると、状態の悪いBの指数が状態3の方が高いので、状態3の方が正しい。次に状態1,2を比較すると、状態の悪いBの指数は同じだが、次に状態の悪いAの指数が状態1の方が高いので、状態1の方が正しい。このように、平等それ自体を目指さないことで、優先主義は水準低下批判を回避している。

優先主義に従ってバランス調整を行う場合、何よりも底辺キャラを強化する(アップデートのリソースを割く)ことが優先される。仮に平等な状態に同程度近付くとしても、底辺キャラの代わりに他のキャラを強化することは許されない。

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スマブラ最終バランス調整の一部抜粋。リンクやインクリングは多くのキャラランク表において真ん中より上に位置していたが、複数の強化を受けた。このバランス調整に対し「他にもっと優先して強化すべきキャラがいる」と感じるならば、あなたは既に優先主義者である

 

十分主義

哲学者ハリー・フランクファートが提唱したのは、全員がそれぞれ十分な量を保有することが重要であると考える十分主義である。十分主義によれば、他人より資源が少ないことや、格差も不平等も問題ではなく、ある個体が持つ資源が十分でないことが問題である。

たとえば前述の状態1,2,3において、十分量が2であるとする。状態1,3を比較すると、AだけでなくBも十分量を有する状態3の方が正しい。次に状態1,2を比較すると、Aが十分量を有する状態1の方が正しいことになり、水準低下批判を免れている。

十分主義に基づいてバランス調整を行う場合、底辺キャラが既に「十分」強いならば、キャラ差が残っていたとしてもそれ以上の調整は必要無い。ただし、「十分」の定義について議論の余地が残る点は実社会も対戦ゲームも同様であるし、ここでの「十分強い」は勝率や使用率などの相対的な評価によるものではなく、性能などの絶対的な評価による必要があり、実現できるかは怪しい。

スマブラSP最終バランス調整後のディレクターのツイート。「オンライン平均勝率も含めてバラけており、おおむね望ましい配分」という言葉からは、平等ではないものの許容範囲に収まっていることが示唆されており、十分主義の思想が窺える(ただし勝率自体は相対的な指標である点に注意)

 

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△全員に一律で支給を行うベーシックインカムの図示。バランス調整では「全キャラにプラスになるシステム」の導入に相当する。この手のシステムはキャラによって受ける恩恵がマチマチであることが通例だが、全キャラが強くなることで底辺キャラでも「十分」強くなるならば、十分主義の観点からは望ましい調整と言える

 

厚生の平等

生活満足度などを基準として、生活の豊かさ(厚生)によって平等を評価するのが、厚生の平等である。たとえば同じ月収50万でも月残業時間が0時間と100時間では雲泥の差があるが、単なる所得の平等ではこれらを区別できない。一方で厚生の平等ならば、前者の方が余暇が多いので豊かであると評価できる。

厚生による評価をバランス調整に活かす場合、ユーザーが対戦ゲームにどれだけ満足しているかを測る必要がある。簡単で強いキャラを使うプレイヤーの方が、難しくて弱いキャラを使うプレイヤーよりゲームに満足していると考えられるので、満足度を基準にキャラ差を推し量ることができる。一方で、あまり勝てていないキャラでも使用者が満足しているならば強化は必要ないという考え方もできる。ゲームに対する満足度は直接的なアンケートの他に、キャラごとのプレイ時間や試合数、ゲーム自体のプレイ頻度、SNSの感情分析などから推定することができるだろう。

さらに、満足度ならば直接のユーザー以外も評価できる可能性がある。つまり、配信の視聴者や大会の運営者など、通常のユーザー分析では漏れてしまう相手も含めることができる。これは潜在顧客や自社IP知名度の拡大を目指すなら無視できない利点と言える。

ただし、平等さを測定する上で厚生情報単体では不十分という欠点がある。同じ状況下でも、現状に満足する人と不満を覚える人がいる。たとえばスマブラSPにおいてはピーチとデイジーは同一の性能であるが、仮に片方のキャラの使用者が自キャラに不満を覚えたからといって、そちらのキャラだけ強化するわけにはいかないだろう。

スマブラSPオンライン大会後のディレクターのツイート。基本的に同性能であっても厚生も勝率もほぼ同じとは限らない

 

バランス調整と功利主義

功利主義と弱体化調整

功利主義は、哲学者ベンサムによって体系化された社会思想であり、「最大多数の最大幸福」で知られる。社会の幸福が最大となるように行為する義務を、各個人は負うことになる。

あるキャラを弱体化する場合、そのキャラを使っている人は普通反発する。しかし、もしそれでゲームバランスが改善され、そのゲームに関わる人全体で見ればプラスになるならば、功利主義の観点から弱体化調整は正当化される。

しかし、「全体で見ればプラス」という理由で少数派を犠牲にすることは安易に肯定してはならない。これはゲームの外でも同じであり、治安が良くなるからといって軽犯罪者を1人ランダムに選んで極刑に処してよいわけではないし、東京の気候が改善されるからといって1人の少女を無闇に人柱にしてよいわけでもない。このような行いは萎縮を生み、結局は全体の幸福を減ずることになる。特にスマブラではどのキャラの使用者も全体で見れば少数派であるため、功利主義の落とし穴にハマらないよう注意が必要である。

 

総和主義

功利主義には、「全体」の幸福の合計を最大化することを目指す、総和主義の側面がある。ここで問題になるのは、「全体」がどこなのか、つまり計算に含まれるのがどこかということだ。対戦ゲームならヘビーユーザー、ライトユーザー、購入者、遊んだことがある人、対戦を視聴したことがある人、イベント等で関わったことがある人、どこまで含めるのかは自明ではない。

この点はバランス調整の方針に大きく関わる。ヘビーユーザーだけを対象とするなら競技性や公平さを第一に調整する必要があるし、ライトユーザーも含めるなら手軽さや特定の戦術に対する対応のし易さも重要になる。

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△その割に調整内容はガチ勢向け。引用元動画

 

消極的功利主義

何に幸福を感じるかは人によって大きく異なる。スマブラ1つを取ってもタイム制ストック制アイテムありステージランダム4人乱闘チーム戦1on1タイムアタック百人組み手など多数の遊び方があり、どれを好むかはプレイヤー次第である。バランス調整でも、環境トップの弱体化、下位キャラの環境入り、現状維持など、喜びを感じる対象は様々である。

これに対して、何に苦痛を感じるかはどの人もある程度共通している。極端な話だが誰にとっても拷問は苦痛である。よって、快楽の最大化よりも苦痛の最小化を目指すことも目標として考え得る。このような立場を消極的功利主義と言う。

バランス調整において消極的功利主義の立場を取るならば、多くのユーザーが苦痛を感じる事象(あまりに一方的な展開や、待機するしかない時間が長すぎる展開など)を緩和することに焦点を当てて調整をすることになる。

 

先行存在説

功利主義は、社会全体の幸福の総量を最大化することを目的とする(総量功利主義)。裏を返せば、いかに幸福度が低くとも非常に多くの人が生まれるならばよいという結論を導いてしまう。厄介なことに、単純な販売戦略を取り売上の最大化のみを狙うとこの結論に陥りやすい。もしスマブラがモバイルアプリでリリースされクロスプレイが解禁されれば売上やユーザー数は増えるかもしれないが、地獄の回線環境下での対戦が増加し平均的な満足度はおそらく低下するだろう。

そこで、厚生の平均値を見る平均功利主義が考えられる。しかし、平均値を下げないことを重視すると、平均値を少しでも下回る人は生まれて来ない方がよいという結論を導いてしまう。平均的なユーザー満足度を上げることばかり重視すると、元々そのシリーズやジャンルが好きなガチのユーザーばかりを優遇し、新規のエンジョイユーザーが増えにくくなってしまうのと同じだ。

こうした結論を避ける考え方の1つとして、既に存在する人の厚生だけに着目する先行存在説があげられる。この考え方によれば低厚生の人が可能な限り多く生まれればよいわけでも、可能な限り生まれなければよいわけでもない。対戦ゲームで言えば、既にゲームを購入したユーザーの満足度だけを見ることが先行存在説に相当する。

 

対戦ゲーム独自の調整基準

ここまで、平等論や功利主義に関する議論を(無理矢理)対戦ゲームにあてはめてきた。ここでは逆に、「面白さ」が重大な鍵を握る対戦ゲーム独特のバランス調整基準を見てみよう。

多様性

任天堂社長からのメッセージにある通り、娯楽商品はいずれ飽きられる宿命にある。すぐ飽きられないためにも、対戦ゲームは多様な選択肢を提示することが重要である。バランスが悪いゲームや、そもそも同じようなキャラしかいないゲームには選択の自由がなく、当然飽きられやすい。

キャラの多様性を重視する考えは対戦ゲーム独特と言える。万人が平等な権利を持つ(権利能力平等の原則)ことを前提として多様性を認める思想は多いが、それはあくまで人間に対してのことであるからだ。*3

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スマブラSPのディレクターインタビュー記事より引用。多様性を重視する思想はどの対戦ゲームでもほぼ共通している

 

技術介入性

プレイヤーが自らの技術や選択によって試合の結果をコントロールできるかどうかを、技術介入性と呼ぶことにする。技術介入性はプレイヤーにコントロール感と公平感を与え、満足度の向上に繋がる。逆に技術介入性の無い運要素は試合展開を多様にするが、行き過ぎればプレイヤーからコントロール感を奪い不公平感を与え、興を削ぐ。

スマブラのバランス調整にはすっぽ抜け(多段技が全段ヒットしない事象)修正が非常に多く含まれたが、プレイヤー自身では対策が著しく困難な要素を減らし、技術介入性を高める目的があったのかもしれない。

 

まとめ

対戦ゲームと社会思想は前提が全く異なるものの、優先主義や十分主義、厚生の平等などバランス調整方針の参考になりそうな社会思想はいくつか存在している。特に厚生の平等は興味深く、面白さや楽しさを重視し、直接のユーザー以外も触れる機会が多い対戦ゲームとは相性が良いと考えられる。

対戦ゲームのバランス調整は社会制度と比較すると非常に小規模であるが、競技シーンに関わるコミュニティは今や国境を越えて広がっている。そこに属する人々の厚生を高めることは商業的だけでなく社会的にも意義があるだろうし、一度バカげているほど真面目にバランス調整について考察してみるのも良いのではないだろうか。

 

参考文献

瀧川裕英、宇佐美誠、大屋雄裕 「法哲学」 有斐閣 2014

Chapter01「功利主義」とChapter04「平等」を特に参考にした。この紹介ツイートを見て購入。

 

 

*1:ここでは「平等論」という言葉を平等に関する哲学的な主義や立場を論じたもの、という意味で用いる

*2:なぜバランス調整をするのかについては、こちらの記事が参考になる。プレイヤーに選択の自由、多様性、コントロール感を与えることで、ゲームをより面白くすることができるらしい

*3:キャラの「競技シーンで戦える能力」のことを「人権」と呼ぶことがあるが、皮肉が利いた言い回しである